南十字星

  • 諸島の夕日
    撮れない写真家潤三郎のフォトサロン。久米島・宮古島など南の島の自然を紀行文を交えて紹介します。(アルバム上のアドレスからブログに戻れます)

壁の穴

  • ステラシアター
    壁の穴から潤三郎の『趣味の部屋』が覗けます。

カテゴリー「小説」の記事

☆未来からの切符☆ 第20話 春色の香

狭い部屋の小さなテーブルを挟んでお互いに見詰め合ってしばらく黙ったままの二人だったが、やがてRightが沈黙を破って凛に問いかけた。「これから、どうする?」「そうね、どうしようかしら?」凛は大きく深呼吸をして「わたしを呼んだのはRightだし、ずっとこの部屋に居候しちゃおっかな?」と言って彼の顔を覗き込んだ。Rightは一瞬驚いた様子で目を丸くしたが、ほどなく彼女の冗談だと悟ったのか、「いいよ、凛がその気なら僕は全然かまわないけど?」と軽く返事をした。凛は改めて部屋の中を見回していたが「やっぱりこの部屋で二人は少し狭すぎるかもね?今夜だってもう一つお布団敷いたら歩くスペースないもんね」と言って笑った。「凛も今日は疲れただろ?まだ休まなくて平気かい?」と背中をベットにもたれて上を向いたままRightは言った。朝早く家を出て初めての都会を一日歩き回りオフ会も無事に終えた凛はようやく緊張が解けたのか時々瞳を閉じ心地良い疲れを感じているようだった。

「着替えてゆっくりしなよ」Rightは部屋の隅の造り付けの押入れ兼洋服タンスの中からスウェットとトレーナーを出して凛に渡した。「トレーナーは大学のサークルで作ったオリジナルなんだよ。Sサイズが余ったので捨てるのももったいないし貰っておいたんだ。下は凛には少し長いかも知れないけど、折り返して我慢してよ、ウェストは紐を締めればなんとかなるだろ?それに、きちんと洗ってあるから大丈夫。」そう言って背中を向けた。「ありがとう。」凛はRightが用意してくれた部屋着の上下を受け取り両手に抱えて立っていたが、「ねぇ?」と何かを思いついたようにRightに声をかけた。「Rightはもう休みたい?もしもRightが嫌でなかったらわたしお願いがあるの。」そう言われたRightは「僕ならまだ大丈夫だけど、何だい改まって?」と振り返って凛の顔を見上げた。

「銭湯ってあるよね?」凛は少し恥かしげに小声でRightに言った。「薬師湯って言うのが4.5分であるけど1時までやってるよ、行きたいの?」Rightが尋ねると「うん、田舎にも無い訳じゃないんだけど都会の銭湯ってちょっと雰囲気違うじゃない?よくテレビなんかで見ていたんだけど、カップルがタオルと洗面器を抱えて銭湯へ行ってね、先に出た男の子が銭湯の前で肩をすぼめながら女の子待ってるの。後から出て来た女の子が「ごめんね待った?」なんて言いながら男の子の手を握ると、その手が冷えちゃっててね、女の子が申し訳なさそうに男の子の背中に回って抱きついたりするの。ああ言うのちょっと憧れていたのよねぇ?」人差し指をあごの下に添えて天井を見上げながら語る凛に「銭湯へ行くのはいいんだけど、身体が冷えるまで待たされるのはちょっとねぇ..」とRightは苦笑いした。

「銭湯へ行くのにヒールじゃおかしいし、どっちにしても着替えなきゃね?」凛が言うと、Rightはさっき凛に渡したトレーナーとお揃いの自分のトレーナーを取り出し「僕は玄関で着替えるから」と言って部屋の隅の引き戸を閉めた。しばらくして凛が「どう?似合う?」と片手にさっきまで身につけていたブラウスと淡い花柄のスカートを持ったまま戸を開けた。「うんトレーナーは丁度いいし、スウェットも大丈夫だね。」そう言いながらRightはハンガーを凛に差し出した。それを片手で受け取った凛はもう片方の手に持っていたブラウスを「ごめん、ちょっとだけいい?」とRightに渡してスカートをたたんでいた。Rightは両手の中に微かな香水の香りと温もりを感じながら、彼女の横顔を見つめていた。それはRightが待ち続けていた新しい季節の訪れを感じさせる新鮮な香りと穏やかな温もりだった。

部屋着に着替えた二人はシャンプーと石鹸と入れた洗面器を抱え、タオルを首に巻き手を繋いで深夜の薬師通りを歩いていた。その姿は長い間付き合って来た恋人たちが普段の生活の中で銭湯へ向かう姿と少しも変わらなかった。「それじゃ30分」「待たせるなよ」「じゃぁ40分」高い煙突の風情のある建物の入り口で分かれた二人は暫くして再びその前で一緒になった。額の汗を拭いているRightに、まだ乾き切らない髪をタオルで拭きながら出てきた凛が言った。「待った?」そう言いながらRightの手を握った彼女は「な~んだつまんないの、こんなに暖かいんじゃ背中から抱き付けないじゃない」と不満そうに言った。「それって僕のせい?」Rightは笑いながら歩き出すと、「それより凛の髪、しっかり乾かさないと風邪ひくぞ」と持っていたバスタオルで春の香りのする彼女の髪を後ろから覆うとバサバサと振った。「わぁ~前が見えないよ~」二人はふざけながら来た道をアパートに向かって戻って行った。街灯の光に照らされ長く延びた二つの影はブロック塀の角を曲がったところでゆっくりと止まりやがて一つになった..。

☆未来からの切符☆ 第19話 温もり

「ねぇRight?」小さなテーブルを挟んで俯いたまま凛は言った。「今日はほんとうにありがと。それに突然Rightの部屋に転がり込んじゃって...」「そんなの気にすることないよ、それに凛を呼んだのは僕のほうだし..って言うか、凛は最初からここへ来ることになっていたんだし?」とRightは申し訳なさそうに下を向いたままの凛に言った。「最初から?」「うん、最初からだよ。」驚いたように顔を上げた凛はRightに尋ねた。「どうして最初からなの?」真剣な眼差しで迫る凛にRightは「だって凛はずっと前から僕のこと好きだったよね?」と、今度は彼女の緊張を解きほぐすように冗談を言った。「まぁ随分な自信だ事。」彼女は呆れた顔をして横を向きかけたが「そうでなかったら親に嘘をついてまで東京へ出て来たりはしなかったはずだしね...」と続けるRightに凛は自分の全てを見透かされているような気がして一瞬言葉を失った。

「ごめんごめん、凛に逢いたかったのは本当に僕のほうだし..」困った様子の凛にRightは優しく言った。「わたしも逢いたかったよ、Rightの話を聞いてRightや他のみんなと一緒に東京で暮らしてみたかった。でも勇気がなかったの、本当に一人でやって行けるのか不安だった。でも今は違うよ、わたしはもう後戻りはしない。っていうか後戻りはできないのよね。だからRight?Rightはわたしをずっと見ていてくれないといけないの。」凛は胸の痞えが一気に取れたように素直な気持ちをRightに打ち明けた。「そうだね、そうするつもりだよ。」Rightは凛の瞳をじっと見つめながらそう言うとカラーボックスを並べて作った書棚の上を指差した。「なに?」凛はRightの指先に目をやった。そこには可愛い包装紙に包まれた四角い箱が一つ置いてあった。

凛は座ったままその箱を暫く見ていたが、やがてハッとした様子で立ち上がりその箱に手を伸ばした。「開けてごらん?」Rightに言われてうなずいた凛はおもむろに包装紙を開き一辺が10cmほどの平たい箱を取り出した。「これは..」そのとき凛の脳裏に閃光が走った。そして凛はその箱をじっと見つめたまま暫く動けずにいた。「思い出してくれたかい?」凛に向かってRightは言った。彼女の手のには紅いリボンのかかったチョコレートの箱があった。...わたしが買ったチョコレート...箱を開けると中には正方形の薄い板チョコが金色の紙に一枚ずつ包まれていた。

しかし哀しい事に金色の包みの中は運搬時のショックのせいなのかどれもがみな割れていて原形を留めているものは無かった。「なんてこと...」凛は呆然として立ちすくんでいたが、やがて一つ一つ丁寧に取り出し形を整えて箱に戻した。「このままお炬燵の中で暖めたら、元に戻ってくれないかしら?一度溶けたら少し格好は悪くなってしまうけれど割れてしまったままなんて可哀相。」と凛は割れたチョコレートを必死になって元に戻そうとしていた。「いいんだよ、そんなにしてくれなくても。それに、これからはチョコレートじゃなくて凛が本当にいてくれるんだから..。」そうRightに言われて彼女は、ふと我に返った。そして心の中で呟いた...時空の散歩道、時間がかかったけどようやくあなたの温もりを思い出せたの..わたしの身体は凛のままだわ、でも記憶はわたしに戻ったの。だから...もうわたしを「凛」って呼ばないで..。

☆未来からの切符☆ 第18話 和楽荘

早稲田通りを渡ると一戸建ての家に学生アパートが混在する住宅街になった。昼間歩いた薬師通り商店街はほとんどの店がもうシャッターを下ろしていた。赤提灯やスナックは数件残っていたが、どこも馴染みの客が最後に顔を出す程度のこじんまりとした構えのものがひっそりと営業している程度だった。やがて人の数もまばらになり狭い路地に凛のヒールの音が響いた。「そこを曲がるとすぐだよ。」Rightが言った。時々消えかける街灯を通り越すとすぐに大谷石の塀に囲まれた古い木造のアパートはあった。Rightに聞いていた通りこの辺では滅多に見れない程の古風な建物だったが、造りはしっかりしていて何処と無く懐かしさと温もりを感じる建物だった。

「和楽荘って言うのよね、Rightが送ってくれた手紙の住所にあったけどここなのね?」凛はその建物を見上げて言った。正面の入り口を入ると左に受付兼管理人室があり通路は左右に分かれ、更に2階へ昇る階段と奥へ向かう廊下があった。中庭のあるコの字型の建物は建築当時はさぞかし立派な建物だったのだろうと凛は思った。「ここにいる人達はみんな一人暮らしの若い人達ばかりだから気兼ねはいらないけど、建物が古くてハイヒールはけっこう響くんだよね。時間が遅いからそれだけはちょっと気を付けて。」Rightに言われた凛は、家主が初老の未亡人だった話を思い出した。「わたしが一緒なの大家さんにバレないようにしなきゃね?」と凛は小声で囁きながらRightの後に続いた。

階段を上ると年季の入った檜の扉が一直線に並んで見えた。「一番奥が僕の部屋だよ、それからトイレはここ。」と、Rightは廊下を歩きながら指差した。その隣には水道の蛇口が5.6個並んだ共同の流し台があり、流しの隅には昔使われていた手漕ぎのポンプが当時のまま残っていた。「ほんと凄いねぇ今でもこんなアパートがあるなんて..」Rightから話を聞いてはいたものの、凛はやはり驚きを隠し切れない様子だった。「びっくりした?今からでも近くのホテルは取れると思うけど?」と、少し困った様子のRightに凛は「わたしなら全然平気、それにこういうレトロな雰囲気も結構好きかも?」と笑った。

突き当たりまで行くとRightはポケットから鍵を取り出し部屋の扉を開けた。畳半畳ほどの玄関の右には小さな流し台があり一口のガス台が置かれていた。「扉を閉めたらここで靴を脱いで。」Rightは奥の戸を引いて凛を部屋の中に入れた。四畳半の部屋の隅にはベットがあり、壁際にはカラーボックスを並べた本棚と小物入れ、残った畳一枚ほどの狭いスペースには小さな炬燵があった。部屋の窓は出窓になっていて、棚の上にはアンテナの付いた白黒のTVが置いてあった。「結構綺麗にしてるのね?」凛が言うと「何も無いからね。」とRightは照れ笑いを浮かべた。「炬燵を寄せればここにもう一つ布団が敷けるんだ、今夜は僕がこっちで寝るから。」とRightは炬燵のスイッチを入れながら言った。

「寒いだろ?すぐに暖まるから立っていないで入りなよ。」Rightはまだ部屋を見回している凛に向かって言った。建物は古かったが木の温もりのあるこのアパートは凛にとって思いのほか温かく感じられた。「ありがとう。」そう言って腰を下ろした凛は、小さな炬燵の中で自分の足がRightの足に触れたのに気づいた。「あっごめん。」慌てて足を引いた凛は、自分が今この狭い部屋で、本当にRightと二人きりでいるのだと言うことを改めて実感していた。

☆未来からの切符☆ 第17話 掲示板

この夜、星宙(ほしぞら)に集まったサークルのメンバーは管理人の美穂を含め13名だった。もともと掲示板(BBS)上での付き合いは1年以上も前から続いていたこともあってみな気心も知れ、話が始まるとすぐに誰もが初対面であることを忘れるくらいに和やかな雰囲気になっていた。そしてメンバー同士が直に対面することで、これまでに公表できなかったプライベートな部分も次第に明らかになって行った。会話をするうちに自称国籍不詳のルンと姫路から出てきた美穂、彼女のアシスタント役のモルと関西出身のヤスの4人を除いた他の9人は、出身地はともかく現在はみな東京近郊で暮らしているという事がわかった。「これを機会にまた時々集まって話せたらいいね。」そう茜が切り出すと、「って言うか茜ちゃんとKaoちゃんは二人とも高円寺でしょ?私は新宿だしいつでも遊びに行けちゃうんだけど?」とHitomiが身を乗り出し、「実は俺も西武線の沼袋だからけっこう近いんだよね。」と向井が加わった。

隣のテーブルにいた穂の香も「わたしは浦安だけど中野までは東西線で一本だし..」と言うと、「あたしは船橋だけど学校は四谷だからいつでもOKよ!」とみぃたんが続いた。みんなの話を聞いて手帳にメモを取っていた渋谷に「渋谷さんは何処なの?メモばかり取っていないで教えてよ。」とHitomiが言うと彼は「自分は刑事ですから聞き込みは仕事ですが、情報は漏らせませんねぇ。まぁハンドルネームは渋谷ですが住まいは埼玉です。」と言って皆を笑わせた。「RinちゃんとRightも近いんでしょ?これからはみんなで実際に助け合ってそれぞれの夢に向かって頑張って行こうよ!」と茜が言うと。凛は「あこがれ共同体ね」と彼女に向かって返事をし、参加していたメンバー達も同調した。「あこがれ共同体」というのは当時人気のあった歌手やアーティストが出演していた青春ドラマで、原宿の表三道を舞台に若者達が各々の夢に挑戦して行く姿をコメディータッチに描いたTV番組のタイトルだったが、凛自身はこのドラマを見ている筈もなくどうしてこのタイトルが突然自分の口から出てきたのか自分でもよく分からなかった。

やがて時刻は23時を回り管理人の美穂が声を上げた。「みなさん、あっという間に時が過ぎ、大変残念ですがそろそろ御開きの時刻になってしまいました。うちらはホテルを取ってあるけれど、学生さんもおることやし終電に間に合わなくなったら困る方もいてはると思いますので...」と閉会の挨拶が続いた。「それでは最後に掲示板に一言づつ皆さんのコメントを残してお帰りいただければと思います。これからも『時空の散歩道』をみんなで盛り上げて行きましょう。今日は本当にありがとう。」美穂の挨拶の後に大きな拍手が湧きメンバーは散会を惜しみながら順次席を立った。そして夫々がカウンターの脇にあるFAX用紙を取りオフ会の感想を記入し始めた。

「ねぇRight、この用紙って何?」凛は他のメンバー達が何を始めているのか理解できていなかった。「BBSだよ、この用紙を管理人に送信するんだ。」Rightは凛にとりあえず何も考えずに感想を書くように指図した。そしてそれを彼女のアシスタント役のモルに渡し、二人は星宙(ほしぞら)を後にした。凛が戸惑うのも無理の無い話だった。凛は今日のオフ会をインターネットサークルのメンバーの集まりだとばかり思っていたが、インターネットは米国の大学でようやく開始されたばかりで、当時の日本でそのインターネットに接続できるのは東京理科大の研究室のみだったのだ。一般家庭にインターネットが普及するようになるのはそれから10年以上も後になてからの事だ。サークルのメンバーはインターネットで言うところのプロバイダー役の美穂にコメントをFAXで送信し、それを美穂が取り纏めて掲示板(BBS)形式で返信していたのだった。

そうだったんだ..凛はようやくさっきのFAX用紙の仕組みを理解できた。「それにしても美穂さんて凄いよ、10年以上も後にブレイクするネットコミュニティーの仕組みをまるで知っているかのようだもの。本当は美穂さんてタイムトラベラーなんじゃない?」と凛は冗談混じりにRightに言った。「そうかもね、美穂がいなかったら凛と僕も今、こうして一緒にこの街を歩いていなかったわけだし...」そう言うとRightはそこに立ち止まり、二人は改めてお互いの存在を確認しあうように顔を見合わせゆっくりと歩き出した。

中野の街はいつまでも賑やかだった。間口が一軒ほどの立ち飲み屋では作業服もスーツも入り混じって酒を注ぎ合い、路肩にビールケースをひっくり返してテーブル代わりにした焼き鳥屋の店先では若い女性グループの飲みっぷりの良さに中年男性が圧倒されていた。裏通りを歩く人達の数は一向に減る様子もなく、昼間難しそうな顔をしている中年の男達は無邪気に肩を組み、若者達はあちこちで気勢を上げていた。

やがて繁華街の灯りが遠ざかり周囲に住宅が見え始めた。「本当に僕の部屋狭いけどいいよね?」Rightの問いに凛は「うん。」と軽く返事をしたが、彼のアパートが近づくにつれ凛の鼓動は次第に早く大きくなって行くのだった。

☆未来からの切符☆ 第16話 時空(とき)の散歩道

星宙の店内では賑やかな会話がいつまでも途絶えることなく続いた。中でも議論が白熱していたのは普段から神秘的な話題を振りまきカリスマ的な存在の美穂を囲むテーブルだった。生と死、時間と空間、過去と未来、この夜「現存する世界が全て虚像だとしたら」という仮説をもとに熱弁する彼女の話は、将来に大きな夢を持って集まっているメンバーにとってその可能性と価値観を全否定されるような由々しき展開でもあったが、この手の類の仮説を聞いて悲観的になるようならここに集まってはいないメンバーばかりだったので、議論は伯仲し、さすがの美穂も「あくまでもみんな仮説ですから」と根負けする場面も見られるほどだった。

「みんな凄いわね、哲学者の集まりみたいで圧倒されちゃうわ」と凛が呟くと、「Rinちゃんはこの話どう思う?」と今度は話題を凛に振ってきた。「Rinちゃんが今、ここにこうしている事って虚像でなければ現実よね?さっきRinちゃんは自分が未来から来たのかも知れないって言ってたけれど、だとしたら未来と今とどっちが現実でどっちが虚像?」そう聞かれて凛は一瞬答えに詰まった。「どっちだろう...?」「おやおや管理人さん、可弱い乙女を困らせたらあかんのとちゃう?」隅で聞いていたヤスが笑いながら言うと「それもそやね」と美穂はぺロっと舌を出し凛に向かってウィンクをした。「ヤスさんありがと、でも大丈夫よ。わたしは今を大切に生きようって決めたの、だから今が現実できっと未来は夢、みんなと同じように夢のある未来に向かって今を生きているの。」凛は美穂に向かってそう答えた。「Rinちゃん言うやん、さすが『時空の散歩道』のメンバーやわ」そう言いながら笑う美穂に今度は凛が片目を閉じてお返しをした。

「カンパリとジントニックをお願いします。」「こっちはマティーニとソルティードック!」メンバー達は夫々にお気に入りのグラスを持ち、話し相手を替え乾杯を繰り返しては興味のあるテーブルを動き回りながら時々の話題に夢中になっていた。Rightと凛は、中東諸国を自転車で回り帰国したばかりだというルンのいるテーブルで、飢に苦しみながらも逞しく生きる子供達の話を聞いていた。「この国は平和です、戦争も無いし飢餓もない。僕が見てきた世界は過酷でした。灼熱の日差しの下で住む家もなく、食べ物はおろか、飲み水さえ手に入らずに亡くなって行く沢山の人達を見てきました。しかしそこに生きる子供達は誰もが純粋で瞳は澄み、与えられた短い命を精一杯生きているのを感じたんです。僕が子供達に対して出来る事なんてほんの僅かしか無くて、何の力にもなってやれなかったかも知れませんが、それでも僕はこの現実から目を背けて生きる気にはなれません...」と彼は話に登場する子供のように澄んだ瞳で悲惨な体験さえも明るく語り続けた。「ルンは貧しい人達との厳しい体験をどうしそんなに明るく話せるの?」凛が尋ねると、彼は1ヵ月後にはまた子供達のところへ戻れる事になったのだと言った。持って行けるのはリュック一つに詰めた着替えだけだけれど、自分がこれからその子達の力になれると思うと、課せられた指名を果せる喜びと期待で胸が熱くなるのだと、笑顔の理由を語った。凛はこれまで平凡に生きてきた自分の人生を振り返りながら、今でもルンのような純粋で直向きな青年達が自分達の知らない世界で精一杯生きているのだという事実を目の当りにして目頭を熱くした。

すると今度はそこへ秋田から上京したKaoが入って来て「ルンちゃんは顔もかっごええが、こごろも優すぃんだなぁ。」と東北なまりたっぷりに話し出した。「わだしは、通訳さ目指しで東京さ出で来たが、最初なんが外国語習っても日本語が通じながったらなんもなんねぇべっでぇ、みんながら馬鹿にされてたんだよ。だげんど一生懸命やってだら今じゃ誰もそんなごだ言わねぇぐなっだのしゃ。わだしは世界の色んな国の言葉さ覚えで、ルンちゃんのように色んな国さ回って、日本と世界中の国々の交流に役立つ人になりてぇんだぁ、いつがはルンちゃんと何処かで逢えるかも知れねぇなぁ?」と頬を赤らめながら話した。Kaoは中野の隣の高円寺でアルバイトをしながら夜学に通って暮らしていると言う事だったが、彼女の話によればミュージシャンを目指して活動している茜も同じアパートで一人暮らしをしていると言う。

「ところでRinちゃんの夢は何だったっけ?」バシャっと眩しいストロボを焚きながらHitomiが声をかけてきた。左利きの彼女が手にしていたのはCanonのF1、ブラックボディーの角が剥げ地金の真鍮が剥き出しになるほど使い込まれた名機だった。「わたしの夢はみんなみたいに壮大な夢ではないわ、在り来たりだけど看護婦になりたいの、一人でも多くの患者の命を救ってあげたい。本当はもっと早くなっていたら救える大切な命があったのだけれど..でも、これからでも遅くないって思えてきたの。今までは挑戦する事さえ諦めていた、そんな過去との決別...」凛はそう答えながら、これまで自分自身の意思の弱さを半ば周囲の環境のせいにして、ただ漫然と流れに路を委ねながら過ごして来た日々を改めて悔いる思いだった。そして「みんなも頑張ってね!」とHitomiやKaoに声援を送りながら、喫緊に迫りつつある未知の世界への挑戦に対し決意を新たにして行くのだった。

☆未来からの切符☆ 第15話 星宙(ほしぞら)

「もう少しで星宙(ほしぞら)に着くよ。」凛の手を引きながらRightが言った。星宙は今日のオフ会の集合場所で凛たちが向かっている店の名前だった。「多分店の入り口で美穂が待っていてくれると思うよ。彼女に自分のハンドルネームを伝えてネームプレートをもらうんだ。初対面だとみんな顔と名前が一致しないからね。お店に入ったあとは幹事が上手く進行してくれるだろうから、何も心配することはないし、あとは適当に楽しんだらいいよ。」Rightの言葉に軽くうなずいた凛は「管理人の美穂さんてどんな人なんだろう?みんなの人気者だし、きっと凄い人なんだろうなぁ?」そう言いながら天を仰いだ。ビルの谷間から見える都会の空には、サーチライトや繁華街のイルミネーションに照らし出されて浮かんだ雲が色を変えながらゆっくりと流れていた。通りから外れコンクリートで固められた狭い路地を曲がると、そこはスナックや赤ちょうちんが並んだ袋小路になっており、先へ進むと一番奥の店の片開きになった扉の隙間から、タイトスカートにハイヒールの細い足が時々見え隠れするのがわかった。

二人が店の前に着くと扉の内側から30歳前後の女性が声をかけてきた。「時空(とき)の散歩道のメンバーの方?」「はい、Rightです。」「Rinです。」返事をした二人に彼女は「管理人の美穂です。いやぁ~Rinもかなりの別嬪さんやねぇ~、ささっネームプレート付けて奥へ入って入って。」と少々関西なまりのある言葉で、以前から良く知っている友人を迎え入れるように店の中へと案内してくれた。「美穂さんてやっぱり綺麗な人だったわねぇ、笑顔も素敵だし完璧だわ。」カウンターの前を歩きながら凛はRightに向かって小声で囁いた。サークル管理人の美穂は色白で瞳のパッチリしたスリムな女性だった。黙って立っていれば何処かのモデルか霞ヶ関あたりのキャリアだと言っても解らないくらいに整った容姿で近寄り難ささえ感じる程だったが、関西なまりと気取りの無い仕草が外見から受ける威圧感を和らげていた。

星宙(ほしぞら)の店内はその名称の通り黒に近い紺色の壁と、天井には天の川を思わせる砂金を散りばめたような装飾、巧みに配置された少し暗めのダウンライトとスポットライトによって神秘的な雰囲気が醸し出されていた。壁際に置かれたカップル用と思われるボックス席は木枠で囲まれた高めの背もたれで仕切られ、それが並んでいる様子はあたかも銀河を走る列車の車内を見ているようなファンタジックな感覚だった。「こちらへどうぞ。」美穂に連れられた二人はカラオケルームほどのコーナーフロアへ案内された。そこでは夫々の胸にハンドルネームの書かれたプレートをつけたメンバーが最後の二人の到着を待っていた。「お待たせしてすみませんでした。」Rightが言うと、「君がRightね、俺は向井。」「Rinちゃんはじめまして、わたしHitomiです。」「わたしは茜。」「僕はルン。」..と、まだ幹事の挨拶もないうちに初対面のメンバー達が次々と声を掛け合って、静かだった店内は俄かに活気付いて行った。

暫くして美穂の挨拶が始まった。「みなさん今日は『時空の散歩道』のオフ会にお集まりいただきありがとうございます。わたしが管理人の美穂です。普段は[掲示板]の上でしか話せないメンバーが、こうしてここで実際に逢えて、お互いに顔と顔を合わせながら熱い会話ができることをとても嬉しく思っています。聞くところに寄れば早朝から何時間もかけてここまで出てきてくれた人や、遥々海外から一時帰国してくれた人、他にも色々と都合を付けて集まってくれた人が沢山いるようです。メンバーは自称18歳から40代前半、うちの年齢は不詳やけどね?..」と、時折メンバーの笑いを誘いながら美穂は流暢に話を続けて行った。「出身は兵庫県の姫路です。これもみなまで言わんでええことやけど」と注釈を交え「今はある大学の附属病院でDNAと記憶のメカニズムについて研究をしています。例えば、みなさんもこれまでに自分で実際には体験したことのない出来事を夢で見たことがあると思います。大抵の場合それは自分で想像のできる範囲の空想だったり、こうなれば良いなと言う願望から来るものだったりするけれど、自分では全く見たことも想像したことも無い光景や出来事が突然リアルに夢に出てきたことはありませんか?学校の授業でも学ばない、他人から聞いたことも無い未体験の光景がどうして夢になるのか考えたことがありますか?...」と自分の研究内容に暫く触れた後、「わたしがここで『時空の散歩道』の管理人をしているのも、その研究の成果をいつかみなさんと共有したいという夢があったからなんです。...今日はほんとうにありがとう、みんな楽しい時間を過ごしてくださいね。」と締めた。

それから順にメンバーの挨拶と自己紹介が続いた。「茜です。東海地方出身でミュージシャンを目指しています...」「向井です。北海道で農園を持ちたいんだよね...」「わたしは写真家を目指して東京で暮らしています、Hitomiです。」他にも秋田から出てきた方言たっぷりの通訳志望の「Kao」、間もなくオープンするディズニーのキャストを夢見る「穂の香」、中東諸国を回って飢餓から子供達を救う活動をしている「ルン」、芸能界で働く事に憧れているぽっちゃり系短大生の「みぃたん」、ファンドマネージャーを目指す「ヤス」、自称現役刑事の「渋谷」など、メンバーの話は一様に夢と希望に満ち溢れ、その眼差しは活きいきと輝いて見えた。「次はRinちゃんね?」美穂が話題を振った。「はじめましてRinです。えっとぉ...」凛は一瞬言葉に詰まったが、「わたしは多分未来から来ました。」そう言うと周囲からざわめきと笑いがどっと涌き上がり「いいねぇRinちゃん」「その調子で続けて!」と声援が飛んだ。「わたしは時空を超えて今、みなさんと同じ世界にいます。多分わたしは、この時代でやり残したことを成し遂げるために今ここにいるような気がします。それが何なのか、今はっきりとは解りませんが、多分それは本当の自分を見つけること。そして自分に正直に生きること、そんな事なんだろうと思います。上手く言えないけど、みんなと同じように夢や希望に向かって正直に生きて行きたいってそう思っています。だからこれからもよろしくお願いします。」そう言って凛は横目でRightの方を見ながらちょこんと軽く頭を下げた。

凛のスピーチが終わると美穂は「ありがとうRinちゃん」「ねぇモル?Rinちゃんに美穂特製のスペシャルカクテルを作ってあげて」とカウンターに向かって声をかけた。「そうそう忘れたらいけんね、みんなに紹介せな」と、カウンターの中でシェイカーを振るベストの青年の方を向いて言った。「ここのマネージャーでソムリエの『モル』今夜はうちの助手をやってもらってるんよ、みんなのご期待に応えられるように美味しいカクテルを揃えてますのでお気軽にお声かけ下さいね。」と返した手のひらを彼に向けた。最後にRightが挨拶と自己紹介をし、その後はメンバー同士の賑やかな会話が始まった。

☆未来からの切符☆ 第14話 理想橋

サンプラザを出た二人はオフ会の前にもう少し街の中を散歩することにした。中野通りを暫く北に向かうと小高い丘の上に公園があった。「ここはね、哲学堂公園て言うんだ。」「ふぅん哲学堂公園かぁ この公園を散歩したらわたしももっと賢くなれるのかなぁ?」」Rightの顔を見て凛は首をかしげながら笑って言った。哲学堂公園は鎌倉時代の武将和田義盛の居城跡の土地を明治時代の哲学者井上円了が購入し精神修養公園としたのがその起源で、園内の歴史的建造物の多くは中野区の有形文化財に指定されていた。「僕はここへ来るとなんだか違う世界にいるような気分になるんだ。」そう言いながらRightは公園の奥に向かって進んで行った。「ここが公園の正門、哲理門て言うんだ。」その門の屋根瓦には、瓦の一つひとつに哲学の「哲」という文字が刻まれていた。「門の脇にある像はなに?」凛は傍らの奇妙な像を指差して言った。「これは天狗、そっちは幽霊。天狗は物質界、幽霊は精神界の象徴って言われているんだ。」「幽霊?いきなり脅かさないでよぉ」凛は慌ててその場から離れRightに駆け寄り彼の手にしがみついた。

哲理門を抜けたRightはさらに話を続けた。「この左にある建物は宇宙館、哲学の講義室だったんだって。それからこっちにあるのが四聖堂って言って釈迦と孔子それからカントとソクラテスを祀ってあるんだ。この四聖堂のことをあとから哲学堂って呼ぶようになったんだって。」園内を進んでゆくと他にも復活廊、真理界、唯心庭...など凛が聞いたことの無い奇妙な名前の付いた区域や施設があちこちに点在していた。「なんだか不思議な公園ね、最初にRightが言っていたことがだんだん解ってきた気がする。」凛は言った。「そうだろう?こっちに来てごらん。」Rightは凛の手を引いて丘の上にある平坦な広場へ進んだ。「ここはこの公園の中心で時空岡って言うんだ。」時空岡..ここにも時空があるの..?凛は心の中でそう呟きながら辺りを見回した。小高い丘を囲む木々に周囲の騒音を遮断された時空岡は静寂に包まれ、彼方には西に傾き始めた太陽の紅い光を背にしたサンプラザのシルエットが巨大なピラミッドのように浮かんで見えていた。

「凛?あの橋を渡ろう。」暫しの沈黙を破ってRightが言った。「あの橋は理想橋って言うんだ、これから二人で一緒に渡るんだよ。」彼は公園の隅にある小さな石造りの橋を指差し凛の手を取って歩き出した。橋を渡った凛は一瞬自分の身体が軽くなったような気がした。凛にとってそれはそれまで縛られていた何かから一気に開放されて行くような不思議な感覚でもあった。二人が公園を出る頃、空は茜色に染まり辺りは夕闇に包まれはじめていた。「そろそろ戻らなきゃ、もうすぐ集合時間だ。みんな凛に逢えるのを楽しみにしているよ。」そう言われた凛は好奇心と不安が入り混じった様子で、Rightの顔を上目使いに覗き込みながら言った。「ねぇRight?あの...」「大丈夫!僕がずっと一緒だから。」凛は大きく深呼吸をすると彼の手を握ってまた歩きだした。この頃から凛は自分自身に何か少しづつ変化が起き始めているような不思議な感覚を抱き始めていた。

二人は早稲田通りを横切り再びブロードウェイに戻った。「こっちの通りだよ。」Rightは最初に二人で歩いた裏通りへ向かった。昼間はシャッターの下りていた店の入り口に盛り塩が盛られ、赤提灯に灯がともり、人の流れは次第にメインストリートからこちらの狭い裏通りへと移っていた。家路を急ぐ人の波に逆らいながら二人は駅の北口に向かって歩いていた。そして再びあのポスターが並ぶ映画館の脇に差し掛かったとき、凛はRightに向かって言った。「セーラー服と機関銃、わたし見たわよ。薬師丸ひろ子、可愛いのに凄く迫力あってカッコ良かったのよね。」それを聞いたRightは少し残念そうに言った。「そうかもう見たのか、本当はこの映画、凛と二人で見れたらなぁ?って思っていたんだけど...」そう言って照れくさそうに頭を掻いた。このときRightは凛が自分の横顔をずっと見ていることに気づいていたのだが、敢えて彼女の方は見ずにそのまま前を向いて歩き続けた。

「ねぇRight?」凛は立ち止まって言った。「わたし..凛よね?で、あなたはRight...」「そうだよ、君は凛で僕はRight、でもオフ会では君はR・I・NのRinだよ。サークルのハンドルネームのRin、僕はRight。」この頃Rightは既に凛の変化に気づき始めていた。そして凛自身もまた、これまでの自身の記憶が徐々に遠のいて行く一方で、本来なら体験しているはずのない過去の出来事が、あたかも自分の記憶のように脳裏に浮かび、それが次第に鮮明になって来るのを、自覚し始めていたのだった。

☆未来からの切符☆ 第13話 目覚め

その後、凛が落ち着きを取り戻すまでに、そう長い時間はかからなかった。わたしはRightを信じてここまで来たの..。思えば自宅のパソコンの前で、これまで幾度もRightやサークルの仲間達との会話を重ね、自分が暮らしていた時代よりもサークルのメンバー達が創造していた世界のほうがどんなに活き活きとしていて画期的だと感じていたことか..。その世界に今、自分はこうして足を踏み入れているのだと思うと、何も臆病にも悲観的にもなる必要はなかったはずだ..。時代の風潮に逆らうことも無く、己の意志を持つわけでも無く、過保護な親の言い成りに定められたコースを操り人形のように生きて行く者たちがエリートと呼ばれる世の中よりも、若者たちが其々に自らの夢や希望を抱き自身の力で未来を切り開こうとする活力が溢れているこの時代の方がどんなに魅力的だと感じていただろう..自分はそんな世界に憧れてこのサークルに参加していたのだ。少し前まで不安に駆られて濡れていた凛の瞳は、やがて込み上げる感動の涙で輝くようになっていた。

「そんなに泣くなよ、よけい可愛いくなるじゃないか」Rightはボソッと呟いた。「泣いてなんかないもん。でも今なんて言った?」凛はRightの顔を覗き込み、ちょっと照れくさそうに小首を傾げて聞き返した。「ん?あぁ..さっきの野口五郎の歌、凛が泣き虫だからちょっと歌ってみただけ」「ええ~っ、Rightったらひどぉ~い!」凛は頬を大きく膨らませて口を尖らせた。「凄い顔だぞ~ほらっそこのウィンドウ見てごらんよ」Rightはそう言ってブティックのショーウィンドウを指差すと、凛が横を向いて自分の顔を写している隙に小走りにその場から離れた。「こらっRight待ちなさい!」凛はRightの後を追いながら叫んだ。Rightに追いついた凛は、「きちんと掴んでいなかったら駄目じゃない。もしもわたしが迷子にでもなったらどうするの。」そう言って今度は自分から彼の手を力いっぱい握った。「はいはいそうでした、都会を知らないお嬢さん。」「もうRightったらまたそうやってバカにするぅ~」「そんなことないって..」「ねぇねぇRightここは何のお店..」「ここはJUN、こっちがDOMON、ここはRope′..」二人の話す声はブロードウェイのエスカレータを下り笑い声をフロアのあちこちに響かせながら階下へと消えて行った。

「少しおなかが空いたんじゃない?」Rightが聞くと「うん、なんか急にそんな気がして来た。」と凛は照れながら答えた。「2階は飲食店街になっているんだ、すぐそこに天麩羅の専門店があるよ、住友って言うんだ。小さいお店なんだけど、ここの親父が変わっていてさ、「いらっしゃい」と「まいど」しか言わないんだ。それでもいつも客は一杯でさ...」と職人気質の頑固ぶりを話して聞かせた。「Rightは良く行くの?」と凛は尋ねた。「ううん、たまにしか。旨いんだけど、ちょっと高めでさ。」法律事務所でアルバイトをして学費と生活費を賄いながら生活をしているRightにとって、ブロードウェイ名店街での食事は特別なことがあった時にしかできない彼にとってのイベントのようなものでもあった。「わたしRightが良く知ってる店がいいなぁ、普段とかいつも行ってる店あるんでしょ?」凛はRightの懐を気遣うというよりも彼の普段の生活ぶりをもっと知りたいという好奇心から、そう言ってこの華やかな通りを去ることにした。

ブロードウェイの北口を抜け二人は早稲田通りに出た。「この道を突っ切るとその先は新井薬師商店街けっこうお世話になってるんだよね、左のサンプラザから北に延びているのが中野通りで、交差点の角にあるのは東京相互BK、手前の富士BKのCDコーナーはお得意さんなんだよね、お金がなくなったときにしか行かないんだけど..」とRightは苦笑しながら言った。「で、どこでご飯にするの?」「あっそうだった」Rightは早稲田通り沿いに並ぶ飲食店を何軒か通り過ぎ、「王将」という中華料理屋の扉を引いた。中ではRightと同じ世代の学生アルバイトたちが、カウンター越しに汗を流しながら中華鍋を振り、餃子を蒸し、ラーメンの丼ぶりを運んでいた。ブロードウェイの中の上品で落ち着ける店とは打って変って、狭いカウンターに料理の皿が重なり合うように並べられ、南京椅子に座った客が隣の客と肩をぶつけながら息も付かずに食事をほお張る様は、この街で生きる若者達の生き様を見るようで、凛にとってはある意味新鮮な感覚でもあった。

「こんなところで..いいのかなぁ?」Rightは少々不安げに尋ねると「うん!ここがいい」とまるで求めていた店を探し当てたかのように凛は明るく返事をした。早々に食事を済ませ店を出た二人は、今度は凛のリクエストで中野通りを越えサンプラザへ向かうことにした。コンビ二で売っているサンドイッチをそのまま巨大なビルにしたような建物の正面玄関を入ると、ロビーには大理石が張られ、神殿の柱のように並んだ太い円柱の中央からホールに向かう階段には赤い絨毯が長く敷き詰められ訪れるものの目を釘付けにした。「ここのホールはTVでもよく放送されるから凛も知っているだろう?コンサートホールっていうイメージが強いと思うけど、上階はホテルや結婚式場、レストラン、地下にはボーリング場やスイミングクラブもあるんだよ。」とRightは建物の中を案内して回った。「やっぱ東京って凄いねぇわたしが生まれるずっと前からこんななんだぁ」と凛は感心したように言った。「えっ?」ここは出来てまだ9年なんだけど..と、Rightは一瞬戸惑ったが、程なく納得してまたゆっくりと歩き始めた。

「ところでRight?わたし...」凛は突然困った顔をして言葉を詰まらせた。「なんだい?黙っていたらわからないよ」Rightに堰かされた凛は、思い切って口を開いた。「わたし..まだ今晩泊まるとこ決めて無かったのよね。Rightに逢ってイメージ違いすぎるって言われて振られちゃったらその場で帰っちゃおうかと思っていたし、ホントは先に予約して来たら良かったのかも知れないけど、今となっては27年後の予約じゃ全然役に立たなかったわけだし、これから見つけてもいいんだけれど、突然環境も時代も変わっちゃってる中でわたし一人になるのやっぱり恐いし...」頼りなさそうな凛の声は次第に小さくなって行った。「僕ならかまわないよ、ボロくて狭苦しい部屋でよかったら。それに風呂もついていないし、トイレは共同だけど?」「そんなのいいの、最初に聞いていたし..。」凛はホッとして胸を撫で下ろしたが「あと、部屋は一間しかないから着替えるときはお互いに後ろ向いていないといけないけど?」そう言われて急に顔が熱くなって行くのを感じた。それでも凛は今夜Rightが傍に居てくれるということに何よりも大きな安心感を得、彼への想いがこれまで以上に篤くなって行くのを感じていたのだった。

☆未来からの切符☆ 第12話 タイムロード

ブロードウェイの電気店の前に立った凛は言葉を失った。どうしてなの..今はいつなの?何でこんなになっちゃったの?..凛はその場に立ち竦んだまま暫く呆然として動けなかった。「凛?」「凛!」Rightに何度か声を掛けられようやく我に返った凛は「どうしてなの?今はいつなの?ここは何処?」と周囲の目を気にする余裕すらない様子でRightの両手をわしづかみにして声を震わせていた。「ここは1982年の東京、凛が僕に逢った時からずっと1982年なんだよ。」Rightは落ち着いた口調で答えた。「凛が驚くのも無理も無いけど、もう少ししたらきっと慣れるよ。」「どうして?わたし田舎から普通に電車に乗ってそのまま普通に上野駅で降りたの。そしたらそこにRightがいてくれて、そのまま一緒にいただけじゃない?それがどうして突然1982年になっちゃうの?」凛の興奮は一向に冷める気配がなかったが、とりあえずこの状況を把握しなければと思ったのか、ようやくRightの言葉に耳を傾け始めた。

「凛の乗った列車は赤羽を出てから上野に着く前にトンネルに入らなかったかい?」「ええ入ったわよ、そしてそのまま駅のホームに到着したわ。でもそれがどうかしたの?」「そうか凛が不思議に思わなかったのは、列車を使って上京することに慣れていなかったからだね。」とRightは続けた。Rightの話によれば、本来凛の乗った列車はトンネルなど通らずに16番ホームに入線するはずだと言うのだ。「今年の夏には東北新幹線が開業する、でも起点はまだ大宮駅なんだ。新幹線が上野駅の地下を通って東京駅に乗り入れるようになるのは随分先なんだよ。」つまり将来はともかく、この時代にはまだ上野駅の地下ホームに入る列車は存在しないというのだ。

しかし16番線に入線するレールには将来の新幹線の地下ホーム掘削用に敷設された工事専用の支線と接続するポイントがあり、支線の先端には既に巨大なビルがすっぽり埋まるほどの深い空洞が掘られていると言う。何故上野駅の地下ホームだけが早くから掘り始められたのかははっきり解からないが、着工当初には東北・上越両新幹線の開業時に一気に東京まで乗り入れる計画があったらしい。その後オイルショックや地価の急騰などの経済情勢の変化から最初の計画が変更になり、とりあえず当初予算で運行可能な区間での開業ということになって大宮が起点になったらしい。工事が中断された後の支線は封鎖され、切り替え用のポイントも固定されているから列車が支線に入るようなことは絶対に有り得ないのだが..。

「今日、わたしはそのトンネルを通って来たって言うの?それじゃわたしの乗って来た列車はどうなってるの?地上では列車が消えて大パニックになっているって訳?」まるで夢物語を聞かされているようで凛にはとても納得できる話では無かった。「実は僕にもよく解らない。」「よく解らないって、そんなの無責任じゃない」凛はきちんとわかるように説明してくれとRightに迫った。「あのトンネルの入り口はもうだいぶ前に閉鎖され、その奥の巨大な空洞には誰も入れないことになっている。次の工事のために入り口が開くのは10年近くも後なんだ。でも..」「でもなに?」「前に聞いたことがある。あるとき16番線に入線する列車に乗っていた車掌の間で妙な噂が広まったことがあったって..車掌は検札のために列車の中を移動していたのだけど、先頭車両まで検札を終えて車掌室へ戻ろうとしていた時、乗客の姿が次々と消えてゆくのを見たって言うんだ。まるで列車の窓に吸い込まれるように座席に座ったままの姿で消えて行ったって。そして別の車掌は、上野駅を出た時にはほとんど空席だったはずの車両に、気が付くとそれまで乗っていなかった乗客が突然現れたっていうんだ。それがあの巨大な空洞に繋がるポイントの辺りだったんだって..。」

その話を知っている車掌たちの間では、支線の先で何か起きているのではないかと噂にもなったが、当然そんなこと誰も信じるはずもなかったし、地下トンネルの入り口が開けられることもなかった。10年後に工事が再開されるようになればそんな謎も解き明かされるだろうと、その頃からあの支線は車掌たちの間でタイムロードと呼ばれるようになた。それから車掌たちはタイムロードを超えるまでは車掌室を出たり検札に回ることを控えるようになったと言う。「僕が知っているのはそこまでだよ。」「タイムロード?Rightはその車掌さんたちの噂のように、わたしがタイムロードに差し掛かった時に、それまで乗っていた特急列車から消えてトンネルに吸い込まれたって言いたいのね?」「もしかしたらそういう事があるのかも知れないって言うだけで、真実がどうなのかは僕にもわからない。でも僕が凛を迎えに上野駅のホームに行ったとき、普段見たことがない大きなトンネルが列車の背後に現れていたような?そんな気がしたんだ。だけど、凛と握手をした後でもう一度後ろを振り返ったときにはもうトンネルなど無いいつもと変わらない風景に戻っていたんだ。それから、今日凛が乗って来た列車は特急列車なんかじゃないよ。降りた列車のエンブレムなど気にはならなかったのだろうけれど、あの時間に16番線に入線する列車は急行列車なんだ、さっきの本屋に置いてある時刻表で確認してみたらいい。」そんな..今朝、中野駅で出し忘れた切符は確かに特急券だったのに...Rightの話が終わったとき、凛は無意識のうちにRightの手を強く握っていた。そして「ねぇRight?わたしなんだかまだ良くわからないんだけど...でも大丈夫よね?Rightと一緒にいれば大丈夫よね?」と今にも零れ落ちそうな涙をその瞳一杯に溜めてRightの顔を覗き込んでいた。

「大丈夫。凛は何も心配することないよ、君は僕を信じてここへ来てくれた。これから先は君の心のままに行動したらそれで大丈夫。」凛にはRightの言うことの意味をまだ十分に理解できてはいなかったが、とにかくRightと一緒にいれば何とかなるのだという事を信じて彼に付いて行く以外どうすることも出来なかったのだった。

☆未来からの切符☆ 第11話 遭遇

「ところで凛、東京はいつ頃来たのが最後?」「高校の修学旅行のときかな?でもこうやって街を歩くのは今日が初めてみたいなものなの」凛は自分が同世代の若者に比べ都会というものをあまりにもを知らな過ぎたことに初めて気づき、少し恥ずかしそうに答えた。「そうなんだ、それじゃもっと色んなところ見たいよね。みんなが集まるのは夕方だし、まだまだ時間はあるよ。」Rightは飲みかけのコーヒーを一気に飲み干して早々に席を立とうとした。しかし凛は「そんなに急がなくていいのに、わたしRightのこともっと色々教えて欲しいな。だってサークルの中ではRightのこと良く知っていたけど、本当はどんな人なんだろうって今朝まで少し不安だったのよ」そう言ってRightを引き止めた。

「そうだよね、確かにサークルの中では夫々のメンバーが自由に自分を創造っているし、それが真実とは違う虚像だったとしても誰にもわからない、でもそれがサークルのルールだったからね」凛の言葉に納得したようにRightはうなずき「で、どうだった?」と尋ねた。「どうって?」「さっき凛は言ったじゃないか、本当はどんな人なのか不安だったって」Rightは凛の顔を覗き込むようにして言った。いきなり?..凛はまだRightと逢って間もないのに、そんなに急に聞かれても簡単に答えられない..と「Rightはどうなの?」と逆に切り替えした。するとRightは「僕には最初から不安なんてなにも無かったよ。凛のことは前から良く知っていたしね」と軽く流した。

「ええ~っそんなのずるぅ~い、Rightだってわたしに逢うの今日が初めてじゃない、本当のわたしのことなんて知らなかったじゃない」と凛は拗ねて見せた。しかし、凛にとってはRightの答えが仮に半分いい加減だったとしても、彼が想像していた自分と実際に逢って見た自分とがそう変わらなかったのだという答えをようやく得ることができたような気がして内心ホッとしていたのも事実だった。正直凛にとっても目の前に居るRightは想像していたRightと少しも違わず近くにいるだけで妙に安心できたし、上野駅で最初に逢ったときから既にどこかで知っていた人のような気がしていて、初対面であることの方がむしろ不思議に思えるくらいだった。「それで?どうなのさ」Rightの問いに凛は暫く悩んでいたが、「もう、仕方ないわねぇRightと同じ!」そう言って頬を赤らめた。「ええ~っ?それってずるくない?」二人は顔を見合わせ、そして笑った。

「ねぇRight?Rightの家ってこの近く?」凛はRightがどんな生活をしているのか少し気になっていた。「そうだね、ここから歩いて5分くらいかな?」Rightはこの辺りでは滅多に見られなくなった古い土壁のアパートの一部屋を借りて住んでいた。同じ家賃を払うならできるだけ新しい綺麗な部屋に住みたいと思うのがあたり前な話なのだろうが、彼はアパートを探すときに不動産屋で「この辺で一番古いアパートをお願いします。できれば白熱電球の似合うような。」と、とんでもない条件を提示してアパートを決めたのだった。何故そんな事をしたのか今では本人も良く覚えていなかったが、多分、都会の人間に多く見られがちな見栄や、新しいものをすぐに自慢したがる傲慢な態度に嫌気が差していて、自分の住処にはあえてそんな見栄や贅沢を捨てた素朴さを求めていたのかも知れなかった。「僕の住んでるアパートは凄いんだよ。木曽からわざわざ檜の大木を切り出してここまで運ばせて建てたって大家が自慢してたよ。丈夫で、あの関東大震災でも壊れなかったし東京大空襲の時も奇跡的に残ったんだって。」とRightは笑いながら言った。凛はそれを聞いて眉を顰めながら「それって相当...ってことよね?」と息を飲んだ。

それから間もなく二人はルノアールを出て少し裏通りを散歩することにした。「へぇ~中野ってメインストリートは随分お洒落だけど、裏通りは結構レトロな部分も残っているのねぇ」凛は看板の傾いた立ち飲みの居酒屋や、煤けた暖簾が連なるこじんまりとした商店の軒先を覗き込みながら呟いた。「そうだよ、都会なんて何処へ行ってもこんなもんさ、表向きは華やかだけど、一歩裏道に入れば貧しい人達の吹き溜まりだったりもする。みんな虚勢を張って生きているけど、本当はこういう裏通りでホッとする時間を見つけていたりするんだ。」Rightはそう言いながら天を仰いだ。「ねぇここ映画館?」セーラー服と機関銃・キャノンボール・ハイティーンブギ・機動戦士ガンダム・少林寺...凛にはあまりピンと来ないタイトルだったが、まだ新しいポスターが壁に並べて張ってある建物を指差して言った。「うんそうだよ、凛はどんなのが好き?」Rightはポスターの前で足を止め、目を輝かせながら凛に尋ねた。しかし凛にはここで上映されている映画がどんな内容なのかもほとんど理解できていなかった。「わたし...このセーラー服と機関銃って言うのくらいしか聞いたこと無い、長澤まさみが歌っていたアレよね。あとガンダムなら少しはわかるけど...」と申し訳なさそうに答えた。

「そうか、それもそうだよね、ここに来たばかりでいきなり聞いてもちょっと無理か?」Rightはそう言って凛の手を引いた。「なによぉ、そんなにバカにしなくたっていいじゃない。田舎にだって映画館くらい沢山あるわよ。ただ、こういうのまだやってないって言うか、その..わたしは崖の上のポニョとか21世紀少年とかそういうのが好き!」と凛は半分泣きそうな顔で唇を尖らせた。「ごめんごめんバカになんかしてないさ、ただ...」そう言うとRightはまた歩き出した。「ただ何よぉ」凛はRightの引く手を止めて食い下がったがRightはそのまま黙って歩いて、今度はなにやら賑やかな音の聞こえるゲームセンターのような店の前で止まった。「中に入ってみる?」Rightは言った。中では学生やスーツ姿のサラリーマン達が一様に小さなテーブルに座り、夢中になってテーブルの前から突き出たレバーを動かしていた。

何これ...凛は薄暗い店内で黙々とゲームに興じる集団の背中にしばし圧倒されていたが、やがていったい何にこんなに夢中になれるのだろうという興味が沸いてきて、恐るおそる店内に足を踏み入れ、テーブルに組み込まれたゲームの画面を覗き込んだ。ええっ何?凛は再び驚愕した。TVゲームの画面には左右に動く小さな蟹のような集団が沢山いた。それが次第に迫ってくるのを手前からミサイルのようなもので弾くだけの極めて退屈な中身で、時々流れてくるUFOを打ち落とすとボーナス得点がつくといった単調な作業の繰り返しだった。凛を驚かせたのは、この単調なゲームにこんなにも多くの人達が夢中になっているという、その姿だった。「何なのこれ?」凛はRightに尋ねた。「これはインベーダーゲームって言うんだ。今までは店の隅にあるブロック崩しみたいなゲームしか無かったけど、これができてからはみんなこれに夢中なんだよ」とRightは店の隅に凛を引き寄せながら小声で答えた。インベーダーゲーム?...かつてどこかで聞いたことがあるかも知れない...しかし、凛は自分の知っているTVゲームとはあまりにもかけ離れたこのゲームに夢中になる都会の人間の習性に次第に不信を感じるようにもなっていた。

「ねぇRight、わたしやっぱりブロードウェイを歩きたい。」「そうか、ならそうしよう。」Rightはゲームセンターの脇の路地からサンモールに戻り、そのままブロードウェイの入り口に向かって行った。「ここは1Fから4Fまでがお店、その上はマンションになっているんだ。以前はここに沢田研二が住んでいたんだ、青島幸男のやっているスパゲッティの店もあるよ。」Rightは凛に自慢げに案内をした。しかし凛にとってRightの話はどれも妙に古臭い話に聞こえた。..もっと今時の話はないのかしら..凛はせっかく東京に出てきているのだから少しは最新のトレンドも案内してもらいたいと多少不満を感じ始めていた。エスカレーターを一気に昇り、二人は4階の旭書店の前に出た。「ここはブロードウェイの中で一番大きな本屋さん、レンタルビデオやレコードも置いてあるんだ。」と言ってRightは店の中に入って行った。

レンタルビデオはともかくレコードってことはないでしょ?凛は益々エスカレートするRightの時代錯誤な会話について行くのがやっとの思いだった。そんな凛が足を止め耳を澄ますと天井のスピーカーからBGMが流れているのに気が付いた。セーラー服と機関銃のイントロだった。さっきの映画館のアレね..凛は思った。しかしイントロの後に聞こえてきたのは凛の知っている長澤まさみの声では無く、リメイクされる前の薬師丸ひろ子の声だった。ええっ?凛は書棚に並べられた書籍には目もくれず、ビデオコーナーを通り抜け一番奥にあるミュージックコーナーに足早に向かった。すると、そこにはなんとRightの言う通り沢山のレコードが並べられており、壁に貼られているヒットチャートには『聖母たちのララバイ』岩崎宏美 『赤いスイートピー』松田聖子 『少女A』中森明菜 そして『セーラー服と機関銃』薬師丸ひろ子 ...と凛が想像もしていなかった楽曲が連ねられていた。

何なのよこれ...それにどうなってるの?凛は急に不安になった。「ねぇRight、これいったい何?どういうことなの?」最初のうちは凝り性のRightがオフ会を前に中野の街でもレトロなところだけを案内をしているのだろうと思っていたのだが、あまりにも非現実的な光景を立て続けに目にした凛は次第に妙な気分になってくるのを押さえきれず、つい叫んでしまった。「うん?見ての通りだよ」そう言うとRightは凛の正面に立ち、両手を彼女の両肩にあて暫くそのまま黙って動かなかった。凛にはまだRightの言うことが十分に理解できていなかった。見ての通りって...不安そうな凛の顔を見ていたRightは凛の手を引いて今度は数件先の電気店の前に立った。店頭のテレビは先日の大火の続報を流していた。

《東京都赤坂のホテルニュージャパンで発生した火災は、逃げ遅れた宿泊客が被害に遭い、死者33人、重軽重軽傷者29人。警視庁は防火設備の不備が延焼の原因とみて横井英樹社長ら4人を逮捕するものとみられます》...凛は愕然とした。

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